かねがねがちぶ。

人生踏んだり蹴ったり。

2007年07月

CROCS。


アメリカ発おされな履物『クロックス』

余り人の足元を見て歩かないので流行ってるんだかどうなんだか。ただテレビなんかではよく取り上げられている。もう随分前からだよね。最初に見たのはもう今年の初めか去年ぐらいのイキオイ。

なんか素材的にゴムっぽくて、穴が開いて通気性はあるものの、若干蒸れて匂いそうなのだが。基本裸足で履くものだろうし。

記事にある『FROGDAL』がカエル好きとしては気になる。パチモンくさい感じはするんだけど。でもこれで3000円って俺の感覚ではちょっと高い。2000円だったら買うのにな。

いつも『クロックス』という名称を忘れてしまうのでメモ代わりに。

中国人アル…6。


神戸に『南京町』というちょうど横浜の中華街のような場所があって、そこでは中国の方が色々と食べ物を売っている。彼らは観光客や買物客相手に色々と呼びかけているのだが、「そういった商品がありますよ」という意味で『アルよ』を連発している。


「ゴマ団子アルよー」
「エビシュウマイアルよー」


これは単に存在を意味する『アル』で日本語の用法と何ら変わらない。しかし、日本人が同じ呼びかけをするならば、


「ゴマ団子ありますよー」
「エビシュウマイありますよー」


となるはずだ。『アルよ』というのは日本人の感覚からすると少々馴れ馴れしい。だが、日本語がまだツタない状態で、発音もオボツカなければ『アルよ』というのは言い易く、意味も通じる。俺は中国と日本の間の歴史について疎いが、中国の商売人が言っていた「〜アルよ」という呼びかけを、語尾として何にでもつけてしまうといったことを、誰かが中国人を表現する際に行った可能性もあるのではないかと考えている。

中国の方に、「あなたの国の人のマネをする時日本人の多くは語尾に『アル』をつけます」と言ったらどのように思うのだろう。奇妙に思うのだろうか。また逆にどこかの国では日本人を表す際にこんなことをするというのも是非聞いてみたい気もする。

中国人アル…5。


さて本題である。さんざん差別の話を書いてきたが差別はほとんど関係ない。ただ誤解のないようにと思って書き始めたことが長くなってしまっただけだ。申し訳ない…。

今回取り上げたいのが中国人である。それも現実の中国人ではない。我々の頭の中にいる中国人だ。彼を喋らせてみよう。


「私、中国人アルよ」


この『アル』である。「である」の『アル』とは明らかに異質なコレ。一体コレは何なのだ。中国の方とは数える程しか会話したことがないのだが、『アル』など語尾につけていなかった。いったいこの『アル』は何処から来たのか。

資料を漁ってみるとそれらしい説が2つあった。


・日本が満州国を建国した際、現地人に教えた「協和語」に由来する。


・華僑の方々が日本語を簡単に早く話せるようになる為に考え出した会話法。


教え込まれた説に対し、自ら編み出した説。真っ向から対立している。ただし内容は似たようなものだ。

日本語から「てにをは」を省略し、各品詞の終止形だけをつなげ、かつ肯定文であれば『アル』を、否定文であれば『ナイ』を語尾につけることで細かい文法を無視し実用的な言葉とする。これであれば(最低限会話のできる)日本語習得に二月とかからないそうだ。例を挙げてみよう。


「私は日本語を話すことができます」→「私、日本語、話すアル」
「私は日本人ではない」→「私、日本人ナイ」


後者は「私、日本人違うアル」と言いたくなるトコロだが、『アル』は肯定という前提である。否定形では語尾は『ナイ』になるはずなのだが、それでは「ないアル」という文章は文法的におかしくなる。しかし「ないアル」という表現も見た。バカボンのパパの「賛成の反対なのだ」みたいだ。
果たしてこの両説、どちらが正解なのだろうか。両者とも正解ではないのだろうか。

中国人アル…4。


なんだ突然変な思想に目覚めたかと思われたかもしれないが、そういった、モノの見方がある以上、何県人はこう、どこの国の人はああといったモノの見方がある以上、根底から差別をなくすことは俺は不可能だと思っている。イタリア人はパスタばかり食べていると思った瞬間、差別は既に行われているのである。厳しい言い方だろうか。


ダンプの運転手がいる。たくましい32歳だ。


ここでほとんどの人の脳内では差別が行われたはずだ。どんな人を想像したか。単に「ダンプ運転手」「たくましい」「32歳」というたった3つのキーワードで、勝手に人は男だと思う。女性の可能性を考えない。それも「ダンプの運転手は基本的に男」という一種の職業差別であり、「たくましい女はいない」という性差別である。男よりもパワフルな女性がいたっていいのである。

しかしここで、「自分は差別主義者だ」と思う必要はない。生きていく上でこういったある程度の思い込みがなければやっていけない場面もある。だから俺は差別はなくならないと言っているのだ。

まず先に言っておく。俺はヘドが出るほど不当な差別が嫌いだ。嫌いだが世の中からなくなるものではないと思っている。自分も気付かないうちにしていると思う。社会の最小単位である『家庭』からして差別は行われていることなのだ。

中国人アル…3。


そんな経験があるので「へぇ大阪の女の子とつきあってたのか。どんな感じなの?」といわれても俺は「別に普通やったで」としか答えられないのだ。確かに大阪には東京に比べればたこ焼き屋さんは多い。トンデモナイかっこうをした派手なオバチャンもいる。東京よりは阪神ファンの数だって多いだろう。しかしそれはあくまで傾向であって全てではない。

よって個性というものがある以上、その民族、一定のグループの中で平均化して、ある極端なイメージを見出したところで大した意味などない気がするのである。

そう考えると東京人と大阪人の圧倒的な差異などはせいぜいが言葉ぐらいで、その壁さえ越してしまえば所詮「人と人」なのだ。事実、俺とつきあっていたその大阪の女性も(最終的には別れてしまったが)つきあい始めた段階で、「絶対東京の人とはあかんと思っとった」そうだ。彼女も恐らく東京人の平均化された傾向に惑わされていたのだろう。



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プロフィール

nanny

恥ずかしがりで寂しがり。

Iga腎症、アトピー性皮膚炎等、様々な病気と付き合っており、現在は血液透析(週に3回 1回4時間)を受けている元腹膜透析(CAPD)患者です。

糖尿病がありましたが、40kg以上の減量に成功し、現在は寛解しています。

2009年7月3日に原因不明の卒倒をして以来、離人感を抱くようになりました。

ブログでは日々思った色々なことに就いて書いています。

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