具体的な方法はこうだ。例えばポテトチップスならば、袋を開け、その中で大きくて美味しそうな5枚だけを吟味し、ピックアップする。その後、多くのポテトチップスを残した袋を、流し台に持って行き、中身を水に晒して、食べられなくしてしまう。そして、選び抜いた5枚のポテトチップスを食べ、もしソレ以上食べたいと思えば、再び買いに行く。面倒だと思えば、ソコで止める。
ハンバーガーにしても同様で、持ち帰ったハンバーガーを、ピザを切り分ける具合に8等分し、一番美味しそうな1片を取り、残りはゴミ箱に捨てる。チョイスした1/8のハンバーガーを味わい、更にもっと食べたければ、ハンバーガーショップまでまた買いに行く。「ソコまでして食べたくはない」、と思ったら、ソコで止めにする。つまり、ソレ以上食べられない状況を、敢えて作り出すのだ。
確かに悪い方法ではない。どうしても食べたい時に、例えヒトクチでも食べたいモノを食べられるコトは幸いである。しかし、どうにもモッタイナイ。氏は、この、「モッタイナイ」、と言う感情に付いても色々と書かれているが、食べられる食品を廃棄するコトに由来する、罪悪感に似た何か、は理屈でドーニカナルモノでもない。「ダイエットには捨てる勇気も必要」。うぅん…。
仮に全て無駄なく食べたとしても、余分な脂肪とエネルギーになるだけで、捨てるコトと実は大した違いがないコトは理解できる。けれども、小学校の給食を残せば、食べ切れるまで居残りをさせられるような教育を俺は受けて育った。この本を著した岡田さんは俺よりもずっと年上だが、どうしたワケか、コノ記述を見た時、何かドライで現代風な、若者の価値観を見る気がした。
結局、俺が食べずに我慢した分も、賞味期限が切れれば捨てられて、単なる産業廃棄物になってしまい、俺が無駄にしなかっただけで、代わりに誰かが無駄にするだろう。目の前の現実しか見ていない、と言われれば、その通りだと思う。しかし、やはり俺には、食べ物を意図的に残し、自らの手でゴミ箱に放り込むコトができそうにない。古い考え方かも知れないが、ソレで良いとも思う。