そろそろ9月27日も過ぎようとしていた。
23時。
腹は減る、喉は渇く、眠れないの三重苦に、今まで何とか夢の世界へ逃げられぬものかと潜り込んでいた布団から諦めて這い出し、少し外を歩くことにした。
2015年。十五夜である。
今年は珍しく、中秋の名月に続いて、楕円軌道である月が最も地球に近付き、それに伴って地球から月が大きく見える"スーパームーン"もあるとのことで、どうせ眠れないなら月でも眺めるだけ眺めておくかと思い立ったのだ。
雲の多い空模様である。しかしさすがは名月と呼ばれるだけあって、薄い雲を向こうから月が照らし、ぼんやりとした明るさで、その場所を知らせてくれる。その時刻、ほぼ真上に月はあるらしい。
川沿いの遊歩道に出て、空を見上げながら歩く。
たまに月は顔を出した。相変わらずの美人で、やけに明るい。
しかし名月名月と騒がれて、いささか恥ずかしく感じるのか、出たと思えば、また雲の影に隠れてしまう。
もう少し歩くと、遊歩道沿いの公園がある。遊具も何もない公園で、ただの広場といった風情だ。
彼が子供の時分は、そんな公園でも、キャッチボールをしたりサッカーの練習みたいなことをして遊ぶ者の姿が見られたものだが、今は公園の入り口に
ボール遊び、花火、ペットの放し飼い等の行為を禁止します。早朝深夜は特に近所の方の迷惑とならないよう、心掛けて利用しましょう。
等と書かれた看板が立てられ、『じゃあ何をすりゃ良いんだ?』と思わせるような公園へと成り下がっていた。
そこに石だかセメントを固めたようなものだか、とにかく堅くて、座り心地も最悪なベンチが昔からある。
横幅は150cm程あり、膝を折るようにすれば寝転がることもできた。
23時も回り、こんな時間、こんな何もない公園に訪れる者もないだろう。彼は堅いベンチに寝転がり、天空の月を眺めることにした。その行為もその行為で十分に不審なれど、馬鹿みたいに顎を上げて真上を見つめながらさすらうよりは幾分マシに思われた。
ちらちらと月が雲の合間に出たり入ったりする。薄い雲に隠れたおぼろ月もまた悪くない。
何分ぐらい経ったろう。ざりざりと公園に敷かれた砂利を自転車か何かの車輪が踏む音が聞こえた。続いてスポークのリムをブレーキのゴムが擦る音。
珍しい。この公園に誰か来たようだ。音からすると一台きりの自転車。
恐怖はあった。こんな所に寝転がっているから、浮浪者か何かと勘違いされて、パトロール中の警察官に叱られてしまうかもしれないし、もっと酷ければ、悪い若者から「オヤジ狩り」のようなことをされてしまうかもしれない。
ただ、どういうワケだか彼は、自転車の方を見ようともしなかったし、どんな輩が来るのか確認しようともせず、ただじっと月を見ていた。
と、月と彼の目の間に何かが入り込んで来た。月の影になってしまって何だか良くは見えなかったものの、人の顔だ。ベンチに寝転がった彼の顔を誰かが覗き込んでいる。
驚いて何度か目をしばたかせると、
「あ。生きてる」
女性の声がした。ハスキーといえばハスキー、悪く表現すれば酒に焼かれたような声。しかし、どちらかといえば声は若い。
覗き込むのをやめたのか、目の前から彼女の顔は消えたが、まだベンチの傍らに立っていることは分かる。どう反応したものか困っていると、彼女の方から話し掛けて来た。
「大丈夫っすか?具合悪い?救急車とか要ります?」
しばらく堅いベンチに寝転がっていたものだから、起き上がるのに腰が少しつらい。
「申し訳ない。心配には及びません。月を見ていただけなんです。真上にあるものですから」
「月?」
「ほら、月。今日は十五夜ですんで」
真上を指差すも、月は見事に隠れてしまっていた。
「見えないっすよ?」
「さっきまで見えてたんです…」
「そすか。まぁ何でもないなら良いっす。具合悪くして人が倒れてんのかと」
「ああ…。かたじけない」
喉の奥の方で彼女が「くくっ」と笑ったような気がする。
「時代劇みたいですね。『かたじけない』とか。リアルで初めて聞いた」
「ああ…。はは…」
それきり会話は途絶えた。とはいえ彼女が立ち去る気配もない。
「あ、もしかして、邪魔かな?」
「何で?」
「いや、こんな時間に、こんな場所に来るから、誰かと待ち合わせしてる、とか」
「いや、別に。タバコ吸いに来たんす」
「タバコ?」
「ウチ、禁煙なんで。うるさいんす。近所にコンビニとかもないし。道端で吸ってんのも印象悪いし」
「あー。なるほど…」
「夜になって吸いたくなると、ここに来るんす」
また会話が止まる。タバコを吸いに来たという割りに、そんな素振りも見せない。
「…その、吸えば?タバコ。吸いに来たんでしょ?」
「良いんすか!?」
「余りデカい声を出すなよ。もう夜中だぞ?」
つい声に驚いて、いささか馴れ馴れしい口調になる。しかし彼女は特に気にするふうでもなかった。
「そうすね。で、良いんすか?タバコ?」
「反対する理由もなかろう」
また彼女の喉が笑う。
「マジ時代劇みたいっすね。何なんすか」
「何なんすか」といわれても困ってしまう。これらは彼の口癖のようなものだ。
カーゴパンツの腿の辺りにあるポケットからタバコ一本と100円ライターを取り出すと、彼女は慣れた様子でタバコに火をつけ、大きく煙を吐いた。それと同時に反対側のポケットから携帯用の灰皿を出す。
「吸います?」
「タバコは随分と前にやめたんだ」
「へー。やめたのに近くで吸われて平気とか珍しいっすね」
「あぁ。却って過剰に嫌がる人もいるね」
「やってらんないっすよ」
「立ってないで座れば?」
硬いベンチのなるべく隅に寄って勧めると、もう片方の隅に彼女は腰を下ろした。不思議なことに、そうまでしても顔が良く見えない。ただ髪は短く、カーゴパンツであることも含め、活動的な恰好をしていることだけは分かる。タバコの先端の赤い火だけがちりちりとはっきり見えていた。
「つーか、さっきから気になって見てるんすけど、月、ぜんぜん見えないっすよ?」
見上げれば、厚い雲ですっかり空は覆われている。
「見えてたんだよ。さっきまで」
「それ見る為だけに寝てたんすか?」
「うん」
時折煙を吐きつつ、彼女は月を探すように上の方をキョロキョロと見やっていたようであるが、結局、再び月が現れることはなかった。
金属製の携帯用灰皿に吸い殻を押し込むと、
「じゃ」
それだけ告げて、彼女は去って行った。
何だか不思議な人もあるものだ。
タイミングが良いのだか悪いのだか、少しあって、彼が堅いベンチから立ち上がる頃には、また雲の切れ間から月が顔を出していた。
(注:このお話はフィクションだと思います)
23時。
腹は減る、喉は渇く、眠れないの三重苦に、今まで何とか夢の世界へ逃げられぬものかと潜り込んでいた布団から諦めて這い出し、少し外を歩くことにした。
2015年。十五夜である。
今年は珍しく、中秋の名月に続いて、楕円軌道である月が最も地球に近付き、それに伴って地球から月が大きく見える"スーパームーン"もあるとのことで、どうせ眠れないなら月でも眺めるだけ眺めておくかと思い立ったのだ。
雲の多い空模様である。しかしさすがは名月と呼ばれるだけあって、薄い雲を向こうから月が照らし、ぼんやりとした明るさで、その場所を知らせてくれる。その時刻、ほぼ真上に月はあるらしい。
川沿いの遊歩道に出て、空を見上げながら歩く。
たまに月は顔を出した。相変わらずの美人で、やけに明るい。
しかし名月名月と騒がれて、いささか恥ずかしく感じるのか、出たと思えば、また雲の影に隠れてしまう。
もう少し歩くと、遊歩道沿いの公園がある。遊具も何もない公園で、ただの広場といった風情だ。
彼が子供の時分は、そんな公園でも、キャッチボールをしたりサッカーの練習みたいなことをして遊ぶ者の姿が見られたものだが、今は公園の入り口に
ボール遊び、花火、ペットの放し飼い等の行為を禁止します。早朝深夜は特に近所の方の迷惑とならないよう、心掛けて利用しましょう。
等と書かれた看板が立てられ、『じゃあ何をすりゃ良いんだ?』と思わせるような公園へと成り下がっていた。
そこに石だかセメントを固めたようなものだか、とにかく堅くて、座り心地も最悪なベンチが昔からある。
横幅は150cm程あり、膝を折るようにすれば寝転がることもできた。
23時も回り、こんな時間、こんな何もない公園に訪れる者もないだろう。彼は堅いベンチに寝転がり、天空の月を眺めることにした。その行為もその行為で十分に不審なれど、馬鹿みたいに顎を上げて真上を見つめながらさすらうよりは幾分マシに思われた。
ちらちらと月が雲の合間に出たり入ったりする。薄い雲に隠れたおぼろ月もまた悪くない。
何分ぐらい経ったろう。ざりざりと公園に敷かれた砂利を自転車か何かの車輪が踏む音が聞こえた。続いてスポークのリムをブレーキのゴムが擦る音。
珍しい。この公園に誰か来たようだ。音からすると一台きりの自転車。
恐怖はあった。こんな所に寝転がっているから、浮浪者か何かと勘違いされて、パトロール中の警察官に叱られてしまうかもしれないし、もっと酷ければ、悪い若者から「オヤジ狩り」のようなことをされてしまうかもしれない。
ただ、どういうワケだか彼は、自転車の方を見ようともしなかったし、どんな輩が来るのか確認しようともせず、ただじっと月を見ていた。
と、月と彼の目の間に何かが入り込んで来た。月の影になってしまって何だか良くは見えなかったものの、人の顔だ。ベンチに寝転がった彼の顔を誰かが覗き込んでいる。
驚いて何度か目をしばたかせると、
「あ。生きてる」
女性の声がした。ハスキーといえばハスキー、悪く表現すれば酒に焼かれたような声。しかし、どちらかといえば声は若い。
覗き込むのをやめたのか、目の前から彼女の顔は消えたが、まだベンチの傍らに立っていることは分かる。どう反応したものか困っていると、彼女の方から話し掛けて来た。
「大丈夫っすか?具合悪い?救急車とか要ります?」
しばらく堅いベンチに寝転がっていたものだから、起き上がるのに腰が少しつらい。
「申し訳ない。心配には及びません。月を見ていただけなんです。真上にあるものですから」
「月?」
「ほら、月。今日は十五夜ですんで」
真上を指差すも、月は見事に隠れてしまっていた。
「見えないっすよ?」
「さっきまで見えてたんです…」
「そすか。まぁ何でもないなら良いっす。具合悪くして人が倒れてんのかと」
「ああ…。かたじけない」
喉の奥の方で彼女が「くくっ」と笑ったような気がする。
「時代劇みたいですね。『かたじけない』とか。リアルで初めて聞いた」
「ああ…。はは…」
それきり会話は途絶えた。とはいえ彼女が立ち去る気配もない。
「あ、もしかして、邪魔かな?」
「何で?」
「いや、こんな時間に、こんな場所に来るから、誰かと待ち合わせしてる、とか」
「いや、別に。タバコ吸いに来たんす」
「タバコ?」
「ウチ、禁煙なんで。うるさいんす。近所にコンビニとかもないし。道端で吸ってんのも印象悪いし」
「あー。なるほど…」
「夜になって吸いたくなると、ここに来るんす」
また会話が止まる。タバコを吸いに来たという割りに、そんな素振りも見せない。
「…その、吸えば?タバコ。吸いに来たんでしょ?」
「良いんすか!?」
「余りデカい声を出すなよ。もう夜中だぞ?」
つい声に驚いて、いささか馴れ馴れしい口調になる。しかし彼女は特に気にするふうでもなかった。
「そうすね。で、良いんすか?タバコ?」
「反対する理由もなかろう」
また彼女の喉が笑う。
「マジ時代劇みたいっすね。何なんすか」
「何なんすか」といわれても困ってしまう。これらは彼の口癖のようなものだ。
カーゴパンツの腿の辺りにあるポケットからタバコ一本と100円ライターを取り出すと、彼女は慣れた様子でタバコに火をつけ、大きく煙を吐いた。それと同時に反対側のポケットから携帯用の灰皿を出す。
「吸います?」
「タバコは随分と前にやめたんだ」
「へー。やめたのに近くで吸われて平気とか珍しいっすね」
「あぁ。却って過剰に嫌がる人もいるね」
「やってらんないっすよ」
「立ってないで座れば?」
硬いベンチのなるべく隅に寄って勧めると、もう片方の隅に彼女は腰を下ろした。不思議なことに、そうまでしても顔が良く見えない。ただ髪は短く、カーゴパンツであることも含め、活動的な恰好をしていることだけは分かる。タバコの先端の赤い火だけがちりちりとはっきり見えていた。
「つーか、さっきから気になって見てるんすけど、月、ぜんぜん見えないっすよ?」
見上げれば、厚い雲ですっかり空は覆われている。
「見えてたんだよ。さっきまで」
「それ見る為だけに寝てたんすか?」
「うん」
時折煙を吐きつつ、彼女は月を探すように上の方をキョロキョロと見やっていたようであるが、結局、再び月が現れることはなかった。
金属製の携帯用灰皿に吸い殻を押し込むと、
「じゃ」
それだけ告げて、彼女は去って行った。
何だか不思議な人もあるものだ。
タイミングが良いのだか悪いのだか、少しあって、彼が堅いベンチから立ち上がる頃には、また雲の切れ間から月が顔を出していた。
(注:このお話はフィクションだと思います)