今日のお仕事は午前中まででした。

帰りの道中、『今日のブログには何を書くかなぁ』等と考えていて、

ふと、自分の性格的なことに付いて色々と思いを巡らせておりました。

例えば、俺はヤタラと神経質で、更には大いに不完全な人間であるにも関わらず完璧主義者であったりもして、まず人の目に触れることのない、自分の日記(このブログとは違い、帳面に付けている極めて個人的な日記です)の誤字や脱字、更には不格好になってしまっただけのタダの一文字さえ許すことができず、日記帳として用いている方眼ノートの方眼一マスと寸分違わぬ大きさに切った白い紙を、同じくノートの方眼から寸分もズレることなく丁寧に貼り付け、その上で文字を修正する、なんて愚かな行為をしているのです。

その修正用に切った紙がノートの方眼の大きさや形と少しでも違っていれば再び修正用の紙をイチから作り直し、貼り付けが上手く行かなければ何とかして帳面が汚くならぬ具合に剥がして貼り直そうと試みます。

もちろん、修正ペンや修正テープといった便利な文具が売られていることは存じています。しかし、それらでは俺の満足の行くような修正ができぬのです。

もっとも、全ては俺の感覚や価値観の内にあり、サジ加減一つ、他人様から見て、

この字は汚くて許せないのに、こっちの少し歪んで見える文字は許せるの?

と疑問に感じられることも多々あるように思われますが。

そのような気難しさの根本を考えておりますと、古い古い、まだ俺の幼かった頃の記憶が思い出されました。

嫌な、とても嫌な、記憶です。

漢字の書き取りか何かの宿題を、母親に見られています。

勉強を見てくれている

というより、

監視

です。

母親の手には常に消しゴムが握られており、もし俺が書き取りの字を誤ったり、母親から見て少しでも下手な字を書こうものなら、問答無用で母親の手が伸び、俺に対しては恐ろしく乱暴に、でもその書き取り用のノートやプリントに対しては素晴らしく丁寧に、その間違われた不完全な文字を消して参ります。

母親に声はなく、その電光石火の動きから、俺には書き取った文字のどこを間違ってしまったのか、何が母親には気に入らなかったのか、説明されることもなければ、知る由もありません。

そんなことが頻繁に繰り返されていたのです。

文字の正確さを第一とする漢字の書き取り以外でも似たようなことはあり、例えば字の丁寧さは二の次であろう算数の宿題に於いても同様の仕打ちは行われておりました。

今にして思えば、俺と違わず母親も無学な人間でしたから、仮に相手が小学生の宿題であろうと、その意味や内容が彼女には良く分かっていなかったのだと想像します。

精々字が汚いか上手く書けているか、ぐらいのことしか母親には分からなかったのでしょう。

正面に座った母親から受ける威圧。時として理由も分からず伸び来たる消しゴムの握られた手。

そのような記憶へ久し振りに触れましたトコロ、非常に不快な思いが致しました。

今こうして、当時のその様を思い出しつつ文章化していても、深く淀んだココロの澱がドロドロと湧いて来るような…。

この辺りが限界です。

このようにパソコンで打ち込む文字は整然としていて美しく、書くにもそこまでの緊張は要らず、楽しく書けます。

それでも誤字や脱字とは無縁ではありません。

そしてまた今日もしつこいぐらいに書いた記事を見直すのです。見直しては誤字や脱字を正すのです。

何かの拍子に何年も前の古い記事の中に誤字や脱字を見付けてしまい、そんな古い記事のたった一つの誤字や脱字に誰が気付こうワケでもないのに修正していることが度々あります。

俺にとって誤字や脱字は、あの恐ろしい母親の消しゴムと今でも等号(イコール)で結ばれているのでしょう。

そんな自分に吐き気のする思いです。