イジメに遭っていた小学生の頃から、自殺志願者でした。
今でこそ余り強く『死んでしまいたい』とは思わなくなったものの、同時に『生に対する執着』も大して強くないように思えます。
『死そのもの』より、それに伴う『痛み』とか『苦しさ』の方がずっと恐ろしいです。
『痛み』も『苦しみ』もなく、ポンと消えるように死ねるならば、明日にでも死を選ぶかも知れません。
また、自殺が良いことか悪いことか?の判断も未だに付き兼ねている状態です。
殺人が悪いことなのは分かります。『生きたい』と願う他者を殺めるのは良いことではないでしょう。
では、『死にたい』と強く望む者を生かしておくことは果たして善なのでしょうか。
自殺は絶対に駄目だ!誰かに相談しろ!何とかなる!絶対に生きろ!
そう仰る方に対しては、単に
何で?
と伺いたくなります。
自らの死を望み、また自殺を試みようとする人も、簡単ではありません。恐らく誰だって死ぬのは怖いでしょうし、痛かったり苦しかったりするのだって嫌でしょう。
学校が嫌なら行かなければ良いんだ。逃げろ。逃げても良いから死ぬな。
そう仰る方もありました。
自殺をする者だって考えます。
学校に行かなかったらどうなるんだろう?進級できないかも知れない。進学も無理かも知れない。低学歴のままだ。そうしたら就職だって上手く行かない。友達もできない。恋人もできない。結婚だって無理だろう。今、学校から逃げることはできるかも知れない。でも、その後はどうなるんだ?親がずっと面倒を見てくれるの?ヒキコモリみたいになっちゃうかもよ。親だってずっと働けるワケじゃないし、ずっと先の未来、自分はどうなっちゃうんだろう?
俺は「イジメが嫌なら学校に行かなくて良い」なんて優しいことを言ってくれる親の元にはありませんでしたから、嫌々学校にだけは通っておりました。ただ勉強には手が付かず、何とか高校は出たものの、それっきり、大学も出ていません。
就職や転職にも、それはそれは苦労しました。
今の仕事にしたって、たまたまあり付けた内職のようなもので、公式な書類に職業を書くとすれば、「無職」です
不思議なことに、ご縁のあった何人かの女性とお付き合いみたいなことだけはさせて頂きましたが、今に至るも、結婚は一度もしておりません。
そうこうする内、今の医療技術では治らない病気になってしまいました。(人工透析を受けています)
正直、ボロボロの人生だと思います。この言葉は嫌いだけれど、いわゆる"底辺"でしょう。それも、かなり下の。
テレビに出て来る芸能人やプロスポーツ選手みたいな方の中にもイジメられた経験がある方はいらっしゃるようですし、そのような体験談も耳にします。
ただ、彼らが住む世界は余りに特異です。学歴も経歴も関係なく、実力なりがあれば這い上がれる。
そのような人は「生きろ!何とかなる!」と仰るでしょうね。ご自分がそうだったのですから。
残念ながら、死んでしまった方の声は聞こえません。
多く人生に失敗してボロボロになってしまった方の声は我々の耳に届きません。
届くのは、ご本人の努力が実ったか、運が良かったか、とにかく、生き残ることで、上手くいった方々の声です。
自ら死を選ぶ者は知っています。
「あんたと自分は違う」。
だから、40にもなって独り身で、無職で、独身で、底辺のおじさんが、自らの死を望む方に対して
「生きるんだ」
なんてことはクチが裂けても言えません。悪い見本のような存在がここにあるワケで。
「頑張って生きたって、この程度かも知れないぞ」
ぐらいのことは申し上げられるかも知れないけれど。
今でも時折、
『もっと若い内に死んでおけば良かった』
と思うような苦労をすることが少なからずあります。
やはり生きるのは大変です。
『死にたい』のではありません。
『生きられない』のです。
『上手な生き方』を知らないのです。
ただ、テレビの番組宣伝を見て、面白そうな番組を見付けては、
『面白そうだからこれを観たら死のう』
と思い、何か良い音楽と出会っては
『この人の次のアルバムを聴いたら死のう』
と思い、
『どうせ死ぬなら最後に美味しい物でも食べておこうかな』
と思い、
『どうせ死ぬなら最後に富士山ぐらいは登っておきたいな』
と思い、
それが日々繰り返されているだけです。
とてもとてもつまらない人生でした。これからも多分そうでしょう。
今日は明日にでも食べようかと思って、お肉を買って参りました。冷蔵庫にしまってあります。
とりあえず今は、それを食べたら死んでも良いやと思っています。
思っているけど、そのお肉を食べる頃には、次の何か、観たいテレビ番組か、逢っておきたい人か、聴いておきたい話が出て来ているような気もします。
そしたら、それまでは生きるでしょう。
ずっとずっと、30年間、そんなようなことを繰り返して来ました。
それで良かったような気も致しますし、何もかも無駄だったような気も致します。
そんなですから、これより死を選ぼうとしている方に対し
「生きろ!」
なんて言えません。
「じゃ、あんたが俺が死ぬまでの面倒を見てくれるんだな?」
と言われてしまったら、無理だもん。
そうでなければ、そんな無責任なこと、とてもとても。
「簡単に死ぬ」
って、自殺しようとするまで追い込まれた人間は、自分なりに色々考えてはいるんですよ。恐らく。
それでも逃げ場が見えなくて、がんじがらめで、死ぬまでは必死で生きて、それでも死んで行くのでしょう。
「何が言いたいの?」
って、特に何も言いたいことはありません。
必死で足掻いている皆さんに、お疲れ様です、と。
これから生きるも、これから死ぬも関係なく、
お疲れ様です、と。
皆さん、良く頑張られておられるなと、俺は思います。
生きるのって、それだけで大変ですよね。
今でこそ余り強く『死んでしまいたい』とは思わなくなったものの、同時に『生に対する執着』も大して強くないように思えます。
『死そのもの』より、それに伴う『痛み』とか『苦しさ』の方がずっと恐ろしいです。
『痛み』も『苦しみ』もなく、ポンと消えるように死ねるならば、明日にでも死を選ぶかも知れません。
また、自殺が良いことか悪いことか?の判断も未だに付き兼ねている状態です。
殺人が悪いことなのは分かります。『生きたい』と願う他者を殺めるのは良いことではないでしょう。
では、『死にたい』と強く望む者を生かしておくことは果たして善なのでしょうか。
自殺は絶対に駄目だ!誰かに相談しろ!何とかなる!絶対に生きろ!
そう仰る方に対しては、単に
何で?
と伺いたくなります。
自らの死を望み、また自殺を試みようとする人も、簡単ではありません。恐らく誰だって死ぬのは怖いでしょうし、痛かったり苦しかったりするのだって嫌でしょう。
学校が嫌なら行かなければ良いんだ。逃げろ。逃げても良いから死ぬな。
そう仰る方もありました。
自殺をする者だって考えます。
学校に行かなかったらどうなるんだろう?進級できないかも知れない。進学も無理かも知れない。低学歴のままだ。そうしたら就職だって上手く行かない。友達もできない。恋人もできない。結婚だって無理だろう。今、学校から逃げることはできるかも知れない。でも、その後はどうなるんだ?親がずっと面倒を見てくれるの?ヒキコモリみたいになっちゃうかもよ。親だってずっと働けるワケじゃないし、ずっと先の未来、自分はどうなっちゃうんだろう?
俺は「イジメが嫌なら学校に行かなくて良い」なんて優しいことを言ってくれる親の元にはありませんでしたから、嫌々学校にだけは通っておりました。ただ勉強には手が付かず、何とか高校は出たものの、それっきり、大学も出ていません。
就職や転職にも、それはそれは苦労しました。
今の仕事にしたって、たまたまあり付けた内職のようなもので、公式な書類に職業を書くとすれば、「無職」です
不思議なことに、ご縁のあった何人かの女性とお付き合いみたいなことだけはさせて頂きましたが、今に至るも、結婚は一度もしておりません。
そうこうする内、今の医療技術では治らない病気になってしまいました。(人工透析を受けています)
正直、ボロボロの人生だと思います。この言葉は嫌いだけれど、いわゆる"底辺"でしょう。それも、かなり下の。
テレビに出て来る芸能人やプロスポーツ選手みたいな方の中にもイジメられた経験がある方はいらっしゃるようですし、そのような体験談も耳にします。
ただ、彼らが住む世界は余りに特異です。学歴も経歴も関係なく、実力なりがあれば這い上がれる。
そのような人は「生きろ!何とかなる!」と仰るでしょうね。ご自分がそうだったのですから。
残念ながら、死んでしまった方の声は聞こえません。
多く人生に失敗してボロボロになってしまった方の声は我々の耳に届きません。
届くのは、ご本人の努力が実ったか、運が良かったか、とにかく、生き残ることで、上手くいった方々の声です。
自ら死を選ぶ者は知っています。
「あんたと自分は違う」。
だから、40にもなって独り身で、無職で、独身で、底辺のおじさんが、自らの死を望む方に対して
「生きるんだ」
なんてことはクチが裂けても言えません。悪い見本のような存在がここにあるワケで。
「頑張って生きたって、この程度かも知れないぞ」
ぐらいのことは申し上げられるかも知れないけれど。
今でも時折、
『もっと若い内に死んでおけば良かった』
と思うような苦労をすることが少なからずあります。
やはり生きるのは大変です。
『死にたい』のではありません。
『生きられない』のです。
『上手な生き方』を知らないのです。
ただ、テレビの番組宣伝を見て、面白そうな番組を見付けては、
『面白そうだからこれを観たら死のう』
と思い、何か良い音楽と出会っては
『この人の次のアルバムを聴いたら死のう』
と思い、
『どうせ死ぬなら最後に美味しい物でも食べておこうかな』
と思い、
『どうせ死ぬなら最後に富士山ぐらいは登っておきたいな』
と思い、
それが日々繰り返されているだけです。
とてもとてもつまらない人生でした。これからも多分そうでしょう。
今日は明日にでも食べようかと思って、お肉を買って参りました。冷蔵庫にしまってあります。
とりあえず今は、それを食べたら死んでも良いやと思っています。
思っているけど、そのお肉を食べる頃には、次の何か、観たいテレビ番組か、逢っておきたい人か、聴いておきたい話が出て来ているような気もします。
そしたら、それまでは生きるでしょう。
ずっとずっと、30年間、そんなようなことを繰り返して来ました。
それで良かったような気も致しますし、何もかも無駄だったような気も致します。
そんなですから、これより死を選ぼうとしている方に対し
「生きろ!」
なんて言えません。
「じゃ、あんたが俺が死ぬまでの面倒を見てくれるんだな?」
と言われてしまったら、無理だもん。
そうでなければ、そんな無責任なこと、とてもとても。
「簡単に死ぬ」
って、自殺しようとするまで追い込まれた人間は、自分なりに色々考えてはいるんですよ。恐らく。
それでも逃げ場が見えなくて、がんじがらめで、死ぬまでは必死で生きて、それでも死んで行くのでしょう。
「何が言いたいの?」
って、特に何も言いたいことはありません。
必死で足掻いている皆さんに、お疲れ様です、と。
これから生きるも、これから死ぬも関係なく、
お疲れ様です、と。
皆さん、良く頑張られておられるなと、俺は思います。
生きるのって、それだけで大変ですよね。