当ブログを読んで下さっている直接の知り合いから
「『オバケを信じていない』、『死んだらポンと消えておしまい』と書いておきながら、『あの世で人気者になりたい』等と書く。おまえの宗教観は一体どうなっているのだ?」
との質問を頂きました。
なるほど。確かに矛盾しているようにも見えます。
こんなことはいつ書いても良いことだし、この年の瀬に書くようなことでもない気がするのだけれど、ネタが新鮮(?)な内に書いておくことと致しました。
もしかすると、ちゃんと説明できたとしても、やはり矛盾と感じられる方は出ると考えられ、その点だけは先に書いておきます(^_^;;
確かに、オカルト的な事象も含め、オカルトとはだいぶズレてしまいますが、例えば(超越的な存在としての)神さまや仏さまの存在も信じておりません。
信じていないというか、"何かしらの超越的な存在"はあるに違いない一方、それは分かりやすい、ある特定の神さまであったり、仏さまのカタチを取ってはいないと考えているのです。
つまりは、世の中にある"自然の摂理"みたいなモノが、いうなれば神さまであり仏さまである、みたいな考え方でしょうか。
従って、「無神論者」というより、いわば「多神論者」なのです。
それには神さまだとか仏さまだとかの名前もなく、世の中にある全てに遍在しているのだと。
逆に述べれば、神社にだって神さまはちゃんとおわしますし、教会にもいれば、お寺にもいて、神棚にも、お仏壇にも、お墓にも、お地蔵さんにも、何かそれぞれの神さま的なモノ、仏さま的なモノは宿っておられると考えています。
もっと突っ込んだ書き方をしてしまうと、全く"そのような事柄"とは関係のない、自動車だとか、機械だとか、動物だとか、人間だとか、そのようなモノにだって、ある種の神性は備わっていると思うんですね。
ですから、
「俺はオバケも神さまも信じないよ。そんなの馬鹿馬鹿しい。いないに決まってら!」
とうそぶいては墓石を蹴飛ばしたり、神社の境内で狼藉を働いたり、各種(あらゆる宗教に於ける)法事や祭事を愚かで無駄な行為と断じるつもりもサラサラございません。
自分で死んだらポンと消えておしまいとは書いた一方、死とはそこまで無情なものではないとも考えており、
そうだなぁ…。何と説明して良いやら迷うトコロなのだけれど、
おにぎり、ありますよね。食べ物の。あれ、俺なんかは全く平気なのですが、人によっては、
「他人が素手で握ったおにぎりなんて食べられない!」
と仰る方もあると聞き及びます。乱暴な書き方をお許し願えれば、いささかクチにするには対抗のある汚い物であるかのように感じられてしまうのでしょう。理屈としては分からなくもありません。
一方、普通に食べられるおにぎりを、地面に落としてしまったとしましょうか。砂が付いちゃったり、泥が付いちゃったりして、ちょっと食べられそうにない。これもまた、クチにするには心理的な抵抗が生まれます。
どちらの場合もおにぎりは食べられません。もしかすると、モッタイナイことに、捨てる外ないかも知れない。
ただ、そのおにぎりを、「もう食べられなくなっちゃった汚い物だから」といって、足で踏ん付けたり、蹴っ飛ばして遊んだりってことはしにくくないです?
もちろん、『別に平気だけど?どうせゴミじゃん?』と仰る方もあるかとは存じますが、
『いや、いくら食べられなくなってしまったおにぎりとはいえ、仮にも食べ物を踏ん付けたり蹴っ飛ばしたりするのは、ちょっと…』
と少なからず躊躇いの出る方もある気がするのです。
それと俺の宗教観(?)は少し似ていて、
どうせ信じてないし、ご利益も何もないと思っているし、ドーデモイイっちゃドーデモイイのだけれども、だからといって粗末にしたり、乱暴に扱ったりするのも違う
みたいな。
却って分かりにくいかな(^_^;;
そんなワケで、自分としては『自分が死んだらポンとおしまいだ』と思いながらも、どなたかの葬儀に出席しつつ『こんな阿呆みたいな儀式に…』とは微塵も思いませんし、命を失った瞬間にポンと消えてしまう(予定の)俺に対し、少しでも哀しんで下さる方があるとすれば、それを『無駄なことを』と思うこともなく、それはそれ、非常に嬉しく感じると思います。(すっかり消えちゃってはいるものの(笑))
何とな〜くでもお分かり頂けます?
ほんの少しでも伝わったなら、とても嬉しいです。
だから、信じてはいないと申しつつ、それらを人として畏れ敬う気持ちだけは常に持っていたいと思ってもいます。
何となく、それが道徳心であったり、倫理観であったり、そのようなモノを生み出す根源になるような気がして。
『こんなことをしたらバチが当たる』的な感覚かなぁ。
だったらやっぱ神さまとか信じてんじゃん!って思われてしまうかも知れませんが、上で書いたように
(神さまや仏さまと一般に呼ばれている)超越的な存在=自然の摂理
ですから、
バチが当たるというのも即ち因果
みたいなモノなんですよ。別に神さまや仏さまがどこからか見ていて、「むむ。あやつめ!誰も見ておらんと思って悪いことをしでかしたな!バチを与えてやろうぞ!」ってんじゃなく、
とにかく悪いことをしたら悪い結果が待っている
という
原因と結果
だけがある、みたいな。
お金の無駄遣いを繰り返していたら、本当に必要な物が必要となった時にお金がない
という、簡単な原因と結果。それにしたって
「いざという時に普段の無駄遣いのバチが当たったんだ」
と考えればそうなっちゃうじゃないですか。
そのような摂理や因果が、つまるトコロ神さまや仏さまだったりするのではないかと。
そんなふうに俺は考えているのです。
俺は俺として自分が死んだらポン消えるだけだとは思っているけれど、
他の誰かが
「違うよ。人は死んだら天国へ行くんだよ!」
と仰ったトコロで、ムキになって反論する気は全くありませんし、
「あなたも天国に行けるよ。きっと」
と仰って下さる方があれば、その言葉はとても温かい言葉として素直に喜ばしく思います。
現象として天国に行けるとかどうか
よりも、その方の温かい御念に対する喜びです。
頑張って書いたつもりなれど、やはり矛盾している印象は拭えないでしょうか。
上でも書いた通り、何とな〜くでも
あー。何か分かった気がするわ
と伝わることがあれば嬉しいです。
とうぜん、ある特定の宗教を信仰されている方々を非難する気もございません。
信教の自由は憲法にも定められていると習いました。
俺は俺、名こそないものの、上に書いたような宗教観を持って生きているとご理解頂ければ幸い。
長々とショーモナイことを書いてしまい、本文中の内容も含めて、お気を悪くされた方があれば、申し訳ありませんでした。
「『オバケを信じていない』、『死んだらポンと消えておしまい』と書いておきながら、『あの世で人気者になりたい』等と書く。おまえの宗教観は一体どうなっているのだ?」
との質問を頂きました。
なるほど。確かに矛盾しているようにも見えます。
こんなことはいつ書いても良いことだし、この年の瀬に書くようなことでもない気がするのだけれど、ネタが新鮮(?)な内に書いておくことと致しました。
もしかすると、ちゃんと説明できたとしても、やはり矛盾と感じられる方は出ると考えられ、その点だけは先に書いておきます(^_^;;
確かに、オカルト的な事象も含め、オカルトとはだいぶズレてしまいますが、例えば(超越的な存在としての)神さまや仏さまの存在も信じておりません。
信じていないというか、"何かしらの超越的な存在"はあるに違いない一方、それは分かりやすい、ある特定の神さまであったり、仏さまのカタチを取ってはいないと考えているのです。
つまりは、世の中にある"自然の摂理"みたいなモノが、いうなれば神さまであり仏さまである、みたいな考え方でしょうか。
従って、「無神論者」というより、いわば「多神論者」なのです。
それには神さまだとか仏さまだとかの名前もなく、世の中にある全てに遍在しているのだと。
逆に述べれば、神社にだって神さまはちゃんとおわしますし、教会にもいれば、お寺にもいて、神棚にも、お仏壇にも、お墓にも、お地蔵さんにも、何かそれぞれの神さま的なモノ、仏さま的なモノは宿っておられると考えています。
もっと突っ込んだ書き方をしてしまうと、全く"そのような事柄"とは関係のない、自動車だとか、機械だとか、動物だとか、人間だとか、そのようなモノにだって、ある種の神性は備わっていると思うんですね。
ですから、
「俺はオバケも神さまも信じないよ。そんなの馬鹿馬鹿しい。いないに決まってら!」
とうそぶいては墓石を蹴飛ばしたり、神社の境内で狼藉を働いたり、各種(あらゆる宗教に於ける)法事や祭事を愚かで無駄な行為と断じるつもりもサラサラございません。
自分で死んだらポンと消えておしまいとは書いた一方、死とはそこまで無情なものではないとも考えており、
そうだなぁ…。何と説明して良いやら迷うトコロなのだけれど、
おにぎり、ありますよね。食べ物の。あれ、俺なんかは全く平気なのですが、人によっては、
「他人が素手で握ったおにぎりなんて食べられない!」
と仰る方もあると聞き及びます。乱暴な書き方をお許し願えれば、いささかクチにするには対抗のある汚い物であるかのように感じられてしまうのでしょう。理屈としては分からなくもありません。
一方、普通に食べられるおにぎりを、地面に落としてしまったとしましょうか。砂が付いちゃったり、泥が付いちゃったりして、ちょっと食べられそうにない。これもまた、クチにするには心理的な抵抗が生まれます。
どちらの場合もおにぎりは食べられません。もしかすると、モッタイナイことに、捨てる外ないかも知れない。
ただ、そのおにぎりを、「もう食べられなくなっちゃった汚い物だから」といって、足で踏ん付けたり、蹴っ飛ばして遊んだりってことはしにくくないです?
もちろん、『別に平気だけど?どうせゴミじゃん?』と仰る方もあるかとは存じますが、
『いや、いくら食べられなくなってしまったおにぎりとはいえ、仮にも食べ物を踏ん付けたり蹴っ飛ばしたりするのは、ちょっと…』
と少なからず躊躇いの出る方もある気がするのです。
それと俺の宗教観(?)は少し似ていて、
どうせ信じてないし、ご利益も何もないと思っているし、ドーデモイイっちゃドーデモイイのだけれども、だからといって粗末にしたり、乱暴に扱ったりするのも違う
みたいな。
却って分かりにくいかな(^_^;;
そんなワケで、自分としては『自分が死んだらポンとおしまいだ』と思いながらも、どなたかの葬儀に出席しつつ『こんな阿呆みたいな儀式に…』とは微塵も思いませんし、命を失った瞬間にポンと消えてしまう(予定の)俺に対し、少しでも哀しんで下さる方があるとすれば、それを『無駄なことを』と思うこともなく、それはそれ、非常に嬉しく感じると思います。(すっかり消えちゃってはいるものの(笑))
何とな〜くでもお分かり頂けます?
ほんの少しでも伝わったなら、とても嬉しいです。
だから、信じてはいないと申しつつ、それらを人として畏れ敬う気持ちだけは常に持っていたいと思ってもいます。
何となく、それが道徳心であったり、倫理観であったり、そのようなモノを生み出す根源になるような気がして。
『こんなことをしたらバチが当たる』的な感覚かなぁ。
だったらやっぱ神さまとか信じてんじゃん!って思われてしまうかも知れませんが、上で書いたように
(神さまや仏さまと一般に呼ばれている)超越的な存在=自然の摂理
ですから、
バチが当たるというのも即ち因果
みたいなモノなんですよ。別に神さまや仏さまがどこからか見ていて、「むむ。あやつめ!誰も見ておらんと思って悪いことをしでかしたな!バチを与えてやろうぞ!」ってんじゃなく、
とにかく悪いことをしたら悪い結果が待っている
という
原因と結果
だけがある、みたいな。
お金の無駄遣いを繰り返していたら、本当に必要な物が必要となった時にお金がない
という、簡単な原因と結果。それにしたって
「いざという時に普段の無駄遣いのバチが当たったんだ」
と考えればそうなっちゃうじゃないですか。
そのような摂理や因果が、つまるトコロ神さまや仏さまだったりするのではないかと。
そんなふうに俺は考えているのです。
俺は俺として自分が死んだらポン消えるだけだとは思っているけれど、
他の誰かが
「違うよ。人は死んだら天国へ行くんだよ!」
と仰ったトコロで、ムキになって反論する気は全くありませんし、
「あなたも天国に行けるよ。きっと」
と仰って下さる方があれば、その言葉はとても温かい言葉として素直に喜ばしく思います。
現象として天国に行けるとかどうか
よりも、その方の温かい御念に対する喜びです。
頑張って書いたつもりなれど、やはり矛盾している印象は拭えないでしょうか。
上でも書いた通り、何とな〜くでも
あー。何か分かった気がするわ
と伝わることがあれば嬉しいです。
とうぜん、ある特定の宗教を信仰されている方々を非難する気もございません。
信教の自由は憲法にも定められていると習いました。
俺は俺、名こそないものの、上に書いたような宗教観を持って生きているとご理解頂ければ幸い。
長々とショーモナイことを書いてしまい、本文中の内容も含めて、お気を悪くされた方があれば、申し訳ありませんでした。