かねがねがちぶ。

人生踏んだり蹴ったり。

知的排泄物

石打つ人。

ここ何日か考えていることなんだけれど。

結局、俺は自分が石を投げつけても許される相手を探して生きているだけの人間かもしれないな、なんて。

大なり小なり悪いことをしたり、ちょっとした失敗をしてしまったり、そういう

たとえ責めても文句を言われないような人

を認めては、自分なりに罪やしくじりの大きさに応じた石を投げ、心の中で実は少し石投げを楽しんでいる。

正義の思いからの行動のように自分では思いこんでいるものの、何てことはない、それは単なるストレス解消で。

自分より立場が上の人間に石を投げる方が更に罪の意識が薄くなって楽しい。

他のみんなと混じって投げている時もある。

そんなふうに、今度は自分が石を投げられる対象になったら怖いから、普段からおどおどと小さく小さく生きている。

自分が弱い人間で、おとなしく静かに生きている限り、余り石が飛んでくることはない。

俺は社会の底の近くで、上の方を羨ましくながめながら、それでも自分が本当に上へ行こうとはしてもいないんじゃないのか。

きっとずっと下の方から石を投げ上げているのが楽しいんだ。

上は良いなぁと思う一方で、上がるのも怖い。

人から石を投げつけられるのが怖い。

だから俺は底の方で生きている。

上の方にいる人々を妬みながら。

石を投げ上げられる日を楽しみにしながら。

俺は惨めな人間だったな。

大量脱走事件。

深夜3時。

ふと気が付けば、30年振りぐらいで

ヒツジを数えて

いる。

今時の若い方もやるのかな。

眠れない時にヒツジを数える。根拠も効果もイマイチ不明の、ほとんど"おまじない"みたいな。

何となく、アタマの中のイメージでは、

中央に牧場の柵みたいのがあって、ヒツジが一匹ずつ、片側から走って来ては、ポーンと柵を飛び越え、反対側へと消えて行く。

ヒツジが一匹。

ヒツジが二匹。

ヒツジが柵を飛び越える状況って何だろう?

脱走?

だとしたら大変だ。眠っている場合じゃない。

どんどんヒツジが逃げている。

そんなことが気になって、やっぱり眠れない。

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鋭利の冬。

やっと冬の寒さも厳しさを失いつつあり、空気が少し丸みを帯びて来たらしい。

冬の寒気には鋭さがあって、肌にぴりぴりとした痛みさえもたらしたものだ。

風の中に目には見えぬ細かく鋭いカミソリがあって、それが皮膚を浅く刻む。

ちくちくと刻まれた小さな傷が集まったり深まったりすると"しもやけ"になったり"あかぎれ"になったりするイメージ。

だから冬は肌が荒れるし、あっちこっちがぴりぴり痛む。指の関節の曲がる所や何かが知らずにぱっくり切れているのは、空気に含まれるカミソリのしわざだ。

エアコンの設定温度は冬場と変わらずにしてあって、ちゃんと室温がそうなるよう制御されているハズなのに、真冬のそれと違って少し暑いぐらいに感じた。

暖房を切って窓を開ける。

確かに夜気はまだ冷たい。冷たいのに春の夜気は冬のそれとは違う。カミソリの刺激を感じず、少し火照った頬に心地良く思える程だ。

もう少し、この春の夜の良さを上手に表現したかった。

やはり文章が下手なのだろう。

寒気がはらむ微細なカミソリ。

その表現は気に入っている。しかしどうにも上手くない。

センスがないのかな。

言葉は知っている。知っているのに組み方がまずい。

一日にどれだけの文字を書いているやら、自分でも計り知れないぐらいだが、まだまだ自分の思ったような文章を組めたタメシは滅多にない。

たちまち部屋の温暖でなめらかな空気が冴えて来る。

まだ少し空気の中にはカミソリがいるようだ。

窓を閉めた。

そして作文の下手さ加減に落ち込む時間。

この時間は好きじゃない。

もっと上手な文章を書けるようになれたら良いのに。

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三百円。

昨日から出した手袋は、確か去年だか一昨年の冬、急な寒さに耐え切れず、出先で適当に購入した物であると記憶しています。

余りお金もなくて、とにかくその日の寒さに我慢ができず、とはいえそんな状況でしたから、まだ寒くなったばかりの頃で、堪えがたい寒さとはいえ命に関わる程でもなく、とりあえず指先がじんじんと痺れるように痛むので、それさえ"まし"になれば良いやと、百円均一のお店へ駆け込んだものです。

さすがに百円の手袋を防寒とするには頼りなく、百円均一のお店とあっても特別に売られていた三百円の手袋。

それなりの厚手で、温かい。

その後も、

『ちゃんとした……少なくとも三百円では買えないような……手袋を買おう』

と思いつつ、

『ちゃんとも何も、この三百円の手袋でじゅうぶんに温かいのであれば、これこそがまさに「ちゃんとした手袋」ではないか』

でしばらく。

未だ新たな手袋を購入することもなく、三百円の手袋が今はコートのポケットに押し込まれています。(手袋をしたままじゃスマホが打てないからね)

スマホを扱うようになった頃から、外出時の手袋の着け外しも頻繁になったような気がし、外した手袋をポケットに突っ込んだり、その同じポケットから何か細かいリップクリームやらミントタブレットやらを出したり入れたりしている内、ぽろっと手袋が落っこちて、そのまま別れられれば仕方なく

「ちゃんとした手袋」

を購入する機会も設けられるのだけれど、そういう物に限って俺との縁が深いのか、割りと雑に扱っているつもりなのに、三百円の手袋はなくなることもなければ、破れたりして機能不全に陥ることもなく、ほかほかと俺の指先を健気に温めてくれるのでした。

「ちゃんとした手袋」

も欲しいのですが、この三百円の手袋もちょっと今ではお気に入り。

どっか行って欲しい思いの反対で、ポケットの中にある三百円にしては働き者の手袋の存在が一組しっかり感じられると、ちょっと安心してしまう自分もいます。

なくなってくれたら「ちゃんとした手袋」買えるのにな。

でもなくならなくて良いよ。好きなだけいると良いよ。

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甘薫。

目の前で人が死んだことがある。

俺が中学生の頃で、当時の親戚内で長老格だった爺さん(俺の直接の祖父であるとか曽祖父というわけではない。大伯父というのだろうか。祖母の兄にあたる)がそろそろ危ないというので、俺も含めた親戚連中がしばらく爺さんの入院していた病院へ集められた時のことだ。

親戚が集まったところで、"今後のこと"を話し合うべく、大人たちは病室を出て行った。

今にして思えば、同室から死人が出てしまうことに対する病院側の配慮だったのだろう、爺さんは四人部屋だか六人部屋だかの大部屋から個室へ移されており、ひどく痩せ、体からチューブやコードの類が延びていたのを何となく覚えている。マスク様の器具で大きく口や鼻の辺りを覆われていて、まともに顔を見ることもできなかった。

"今後のこと"というのも、例えば彼の葬儀であるとか、あるいは相続の関係であるとか、そのような"子供……もちろん当人も……が聞かなくて良い話"だったに違いない。何となく俺は動かない爺さんと二人きりで病室に残されてしまったのだ。

爺さんは意識もなく、俺に何ができるわけでもなし、何となくベッドからはみ出している点滴をうたれカサカサになった腕を眺めていた。

不思議なことに、その後の記憶が薄い。ただひたすら慌ただしかった記憶だけがある。もしかすると心電図か何かが彼の死を察して騒がしく鳴いたかもしれない。

"今後のこと"を話し合っていた大人たちは長老の死に厳密には立ち会えておらず、その場には俺だけがいた。

そして俺は死の匂いを嗅いだ。肉の腐る臭いだとか、もちろん線香の匂いなどとも違う、甘い匂い。そんなことをしたこともないが、何となく濃い砂糖水を火にかけた時を思わせる、とにかく甘い、甘い香りだった。

それが彼の死の前後にだけ、ふわりと香ったのだ。その匂いだけはいやにはっきりと覚えている。

加齢からあらゆる臓器が弱り、血糖値に関しても正常ではなかったそうだから、とにかく体の糖の具合でそのような香りが立ったのだろうと俺は推測した。折しも肥満が社会問題化しつつあり、糖尿病という怖い病があると盛んにいわれるようになった頃の話だ。嘘か真か「糖尿病に罹患すると汗が甘くなる」という噂まで聞いた。

時は過ぎ、社会人になってからしばらく、勤め先で簡単な残業をしていると、もっぱら外回りを担当していた先輩が事務所へ戻ってきた。

「まだいたのか」

「えぇ。すぐ帰りますよ。今日は遅かったんですね」

「何だろうねぇ。いつもなら渋滞なんてないんだけど」

がさがさと何やらやっている先輩の背中から、あの甘い匂いがした。中肉中背の先輩で、まだ若く、会社で受けさせられる健康診断のようなものもあったし、彼が糖尿病であるとは聞いたこともない。

戻ってきたばかりだというのに彼は早々に片付けを済ますと、帰宅の準備を始める。

「俺、もう帰っちゃうよ」

「はい。お疲れ様でした」

何やら慌てている気配だ。デスクの下から通勤に使っていた中型バイクのヘルメットを引っ張り出す仕草がどことなく荒っぽい。

「気をつけて帰って下さいね」

そんなことをいつもなら口にすることはなかったと思う。ただ、あの妙に甘ったるい匂いが気になったのだ。そんな俺の言葉を彼は気にしたふうでもなかった。

「うん。じゃ、お疲れ。お先に」

「お疲れ様でした」

事故ということだったが、その直後に彼は死んだ。詳しいことは分からない。さすがに若い身内の突然の死に打ちひしがれる会ったこともない彼の親族に対し、その葬儀の席で、ましてや彼のプライベートもろくに知らない一後輩が

「何でお亡くなりになったんですか?」

などと訊けるはずもなく。

とにかく会社からの説明によれば、

「帰宅途中の事故」

とのことであった。

事故は事故だ。確かに、たまたまバイクを運転中に気分が悪くなったとか、そんなようはことはあるかもしれない。そうであれば彼から例の甘い香りがしたことも説明できよう。あの段階で、彼は何らかの……かの爺さんの死因となったそれと同種の……病魔に蝕まれていたのだ。

とはいえ、事故。

老衰という漠然な因で逝った爺さんと、事故で逝った先輩。砂糖水を煮詰めたような、甘い蜜の香り。死の匂い。

人の生き死にの話は何かと口の端に上るし、誰かしらの葬儀に出席することも少なからずあれ、目の前で人が死ぬ瞬間に立ち会うことは滅多にない。

あの甘い匂いの正体は何なのだろう。

今でもたまに普段の暮らしの中であの甘い匂いを嗅ぐことがある。

人影もない住宅街で。満員の電車の中で。病院で。

そして今は俺しかいない部屋の中で。

匂いの元を探ろうとすると、匂いは消えた。

その時、俺の鼻の最も近くにあったものは、他ならぬ俺の指だ。改めて指を鼻に近づけても、あの香りはしない。

その指は元気にキーボードの上で跳ねている。

今は。

(注:このお話はフィクションだと思います)
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プロフィール

nanny

恥ずかしがりで寂しがり。

Iga腎症、アトピー性皮膚炎等、様々な病気と付き合っており、現在は血液透析(週に3回 1回4時間)を受けている元腹膜透析(CAPD)患者です。

糖尿病がありましたが、40kg以上の減量に成功し、現在は寛解しています。

2009年7月3日に原因不明の卒倒をして以来、離人感を抱くようになりました。

ブログでは日々思った色々なことに就いて書いています。

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