かねがねがちぶ。

人生踏んだり蹴ったり。

知的排泄物

独居。

はぁ。

また溜息。吐いても良いことなんて一つもありはしないし、吐けば吐くほど不幸へ自ら近付いて、不運を呼び寄せているような気さえするのに、溜息ばかり吐いている。

冬は外より寒く夏は外より暑い

実に不可解な拙宅の室温は、気付けば30度近くにまで上がっていた。

ここしばらく、東京は梅雨の涼しさが続いており、時には俺にとって肌寒いぐらいの日まであったせいか、余計に蒸し暑く感じる。

エアコンのリモコンを手に取った。この春先、最後の暖房を入れるのに使った日はいつだったか。

リモコンの液晶ディスプレイには常に時計表示がされている。

その文字がひどく薄い。もうリモコンの電池が少なくなってきているのだろう。

そういえば、使おうと思ってボタンを押しても本体が反応しないことが度々あった。

リモコンの電池蓋を開ける。単四電池が二本。

単三電池ならいくらでもあるのに、単四電池は見当たらない。

そうして使って減るような日常の品の予備は常に確保しているつもりだったのだけれど、どうやら単四電池を切らしてしまったようだ。

はぁ。

また溜息。無意識に出てしまう。

俺は根性の曲がった人間であるから、時に

『今の自分は不機嫌なんだぞ』

と周囲へアピールする為、わざと大きく当て付けの溜息を吐いたりする。

でも、今の俺の周りには誰もいない。いつもの俺しかいない部屋だ。

どんなに大きな溜息を吐いても、それで気を遣って何かをしてくれるような者もいるわけがない。

それでも溜息は出る。

日が昇ったら、都会へ出て映画でも観てこようか。

涼しい映画館で。値段は高いのに、氷だらけの薄い炭酸飲料を飲みながら。

それも夢みたいだ。

今日は午後から血液透析がある。

朝一番の回で観るとしても…。無理無理。ちょっと間に合わない。

炭酸飲料だって透析患者は飲んじゃいけないってことでは決してないものの、俺みたいな神経質で恐ろしく気の弱い人間は、飲んだそばから吐き気をもよおすぐらいの後悔に襲われる。

…。

今度の溜息は飲み込んだ。きりがない。

まだ夜が長い。

やるべき仕事はある。

仕事がないより良いのかな。そう思って頑張ろう。

油の海原。

離人感が強いと感情が薄くなる。
強い感情を得たくなる。

目の前に海が広がっている。

遠くに船も見える。

きっと良い景色だ。

心地良いのかもしれない。

ただ感情は薄い。

何かを感じたい。

このまま海にスマートフォンを放り投げたら、何か感じられるのだろうか。

『やっちまった!』

そう思えるのだろうか。

ここで突発的に行動へ移したくなってしまう点が離人感の恐ろしいところだ。

悲哀でも良い。落胆でも良い。立腹でも良い。

何か感じさせてほしい。

さすがに海へスマートフォンを投げ捨てたら、何かは感じられるだろう。

後悔するに決まっているのにね。

やらないけど。

きっと今の俺の目は、どろりと濁った泥のような目だ。

ずっしり。

不思議なことには、何事にも緊張感をもって臨めば離人感は抑えられる。
ただ、やはり、四六時中緊張感をたぎらせているわけにもいかない。

仕事でキャンセルが出た。

途端に、力が抜ける。緊張感が失せる。

同時に、離人感。

ぬるり。

今まで鮮明だった世界がたちまち膜で覆われる。

正に夢の中だ。

夢の中で怪物に襲われ、逃げる。

懸命に走っているつもりなのに、思ったようなスピードが出ない。

夢の中で自動車を運転している。

ブレーキを踏んだつもりなのにペダルが重く、すかすかと抜けるような感じで、うまく制動がかからない。

そんな世界だ。

俺の歩くスピードはこんなにも遅かったか?

街の動きはもっと俊敏ではなかったか?

スマートフォンの画面の上を滑る指。

もっと速く、思ったことをさらさらと書けていたような気がする。

いつもなら。

いつも。

いつもっていつ?

ふと湧いた疑問の答えも指へ届く前に消えてしまう。

やがて疑問も消えてしまう。

何もかもが遠くへ去っていく。

ぬるりとした世界で。

自分の体重だけが重い。

そんなかたちで自分の体重を意識するようになったのは、いつの頃からだったか。

俺は常に55.5kg前後の肉体を背負っている。

その肉体を背負っている俺は、いったい誰なのだろう。

Automatic。

文章を書く息抜きに文章を組んでいる。

つくづく好きなのだか、他にすることがないのだか、常にアタマの中は言葉でいっぱいだ。

いつだったか、数字の問題を解くにしても文章化している自分に気付いた。

素直に

「1+2=3」

と数式だけで解釈していない。

「一に二を加えるのだから三だ」

みたいなことをやっている。だから当然のように複雑な数字の問題は自身のアタマの中だけでは解けない。

ココロが今のような状態の場合、それを言語化するのは得策とはいえないだろう。

むしろココロの方をそっとしておいてやる方が良い。

ところが俺のアタマはココロから湧く"何らか"にとにかく言葉を与えようとする。

憂鬱。

無気力。

億劫。

面倒。

分かったから。分かったってば。そのネガティブな言葉の数々は、わざわざ知らしめるまでもなく分かってる。

それでもアタマは休まない。他のことではともかく、言語化だけは休もうとしない。それが義務か本分か、或いはそれしかすることがない、それしか機能がないように。

ナーバス。

メランコリア。

ブルー。

ダウナー。

言語化された時点で俺は既に知っている。

言葉にしなくても分かってる。分かる前から感じてる。

それでもアタマは休まない。

言語化だけは休まない。

やがてそれは文字となり、幻覚として目に浮かぶ。

書いても書かなくても文字は書かれる。

最近は夢も映像でなく文字で見るような時が出て参りました(笑)

このブログをアップした後も、また俺は違う文章を書くのでしょう。

アタマは休んでくれそうにありません。

大好きな文字を吐き続けます。

言霊。

それは常に何かを産み出していた。

明るいもの、暗いもの。

善いもの、悪いもの。

ポジティブなもの、ネガティブなもの。

それらを次々に産み出している。今も。

時として、まったく相反するものを同時に産み出したりもした。

ティアマト。

ガイア。

イナンナ。

産み出されるものはいずれも極めて形而上的であり、それに適切なシニフィアンを与えずにはいられなかった。

それは産まれた子に相応しい名を与えることに等しい。

これから育てんとする動物に名を授けることに等しい。

そうすることは当たり前で、そうしないことは寧ろ不自然でさえあった。

言葉に溢れた世界の下から湧いて出る。

鍋で沸騰している湯の泡のように、ぶくぶくと。

まさしくそれはうたかたであり、産まれた途端に腐り始める。元々なかった形を更に崩して消えていく。

薄まる。

溶ける。

消える。

そうなる前に捕まえて、言葉にしなくては。

言葉にすれば、文字にすれば、音にすれば、すっかり消えてしまった後でもそこへ思いを馳せられる。

その時に産まれた何かを思ってあげられる。

それらは思いそのものであるから、再び思うことで蘇らせることができるのだ。

何度でも。

ただし、再び思うには言葉が必要だ。産まれたままの姿では保存ができない。

名前を、言葉を、単語を与えてやらないと、産まれては消える一方になってしまう。

思いを思う為には言葉が必要だ。それも最適な言葉が。最も近い響きが。最もしっくりくる名前が。

産まれた。名付けた。滅びた。

滅びのリストが厚くなっていく。

でも、それで良い。滅びのリストをたどれば、滅びたそれは蘇る。何度でも。俺が言葉を理解する限り、何度でも。

もっと巧みに、完璧な名付けを行えれば、もしかすると、俺の中で産まれたそれを、人の中にも孕ませることができるかもしれない。

日本人の多くに「パンダ」といえば、誰もがだいたい同じようなイメージを持つように。

それらの共有ができるように。

言葉には足らず、かつ言葉を超えた存在を、言葉で表現したいのだ。

それは精神的な病にも近いのかもしれない。

何かに依存するように、何かを失うことを恐れるように、何かへ言葉を与えずにはいられない。

言語化症。

言語中毒。

ネーミングシンドローム。

何でも良い。それにも言葉を与えたい。

言語の外にある混沌に言葉を当てはめたいのだ。

そうしないと可哀想。そうしないと不安。そうしないと恐ろしい。

どれだけ疲れても良い。

この世を言葉で埋め尽くしたくて仕方ない。

この世の全てを言葉で語り尽くしたい。

そうして俺は生きている。

次々に産まれる泡。

おまえの名は……

言葉だ。
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プロフィール

nanny

恥ずかしがりで寂しがり。

Iga腎症、アトピー性皮膚炎等、様々な病気と付き合っており、現在は血液透析(週に3回 1回4時間)を受けている元腹膜透析(CAPD)患者です。

糖尿病がありましたが、40kg以上の減量に成功し、現在は寛解しています。

2009年7月3日に原因不明の卒倒をして以来、離人感を抱くようになりました。

ブログでは日々思った色々なことに就いて書いています。

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