かねがねがちぶ。

人生踏んだり蹴ったり。

手紙

雪のない冬。

未来の俺へ。

そっちは元気か?

こっちは…余りかんばしくない。

色々と不安が多くて嫌になる。

おまえはいくつになる?まだ生きているか?

理由はどうあれ、死の臭いを強く感じている。

自分から死を選ぶのだか、他の理由で死ぬのだか。

おまえがこの手紙を読む頃には全ての決着がついているのかもしれないけれど、『令和元年の災厄』は未だ続いている。もう令和も二年を数えしばらく経つというのに。

風と埃と花粉がひどくて閉口したものだったが、土曜の昼間は暖かかったな。どうやらその風が今年の春一番だったらしい。

この冬は色々と妙な冬で、全体に寒さも緩かった。

もちろん、『暖かい』と感じるほどではないものの、『肌に痛みを感じるほどの寒さ』があっただろうか。

今年の東京は雪らしい雪も降らず、せいぜいちらつく程度で、町中が白に埋もれた景色を見てもいない。

楽といえば楽だな反面、同時に不気味ささえ感じたものだ。

同時に、何となく、桜の咲く頃とか、四月の辺りに

季節外れのドカ雪

に見舞われそうで、少し気になっている。

そんな春の記憶がないだろうか。

未来の自分に手紙を書いておきながら早々に自ら命を絶つのも何であるし、何事もなければまだ生きていたい気持ちはあるから、頑張ってはみるつもりだ。

おまえからの返事がないのが今はいささかつらい。

なるようになる

も裏返せば

ならぬことはならぬ

のだ。なるのか、ならぬのか。今はその答えがほしい。

おまえがのんきに暮らしているのなら、この今の俺の苦悩を笑ってやってくれ。

それを今は望んでもいる。

達者でな。

naany(43歳)

お元気ですか。

未来の俺へ。

相変わらず新型のコロナウイルスが猛威を奮っている。

テレビでは

「警戒を怠ることなく、かといって怯えすぎてパニックになることもなく、正しい知識を学び、病は正しく恐れることが肝要」

みたいなことを度々伝えてはいるものの、それにしては

「今日はドコドコで幾人の感染者が確認されました」

とか、

「ドコドコの国では死者が何人になりました」

とか、明らかに

恐怖を煽る方向でしか事態を伝えていないように

感じられて仕方ない。

折り悪く、日本はちょうど花粉症の季節だ。せめて花粉症用のマスクだけでも手に入れておきたいのだが、コロナウィルスのせいで、どこへ行ってもマスクが売り切れている。

ドラッグストア等へ行っても

「マスク本日売り切れです(次回入荷は未定)」

「マスクはお一人様一箱でお願いします」(なんと大量に購入して高値で転売する輩まであるらしい)

の張り紙が店内のアチラコチラに。

自分なら知っての通り、俺の花粉症は目の症状が強い。

恐らくウィルスに汚染された手指で目をこすったりしても感染のリスクはあるのではないだろうか。

コロナウィルスに関して、そこまで強い危機感は抱いていない一方、

それによって死亡、または肺炎にまでは至らないにしても、自分がコロナウィルスに感染してしまう確率

はそう低くないような気もしている。

とはいえ、自分が苦しむだけならまだしも、それを透析室で広めてしまうことだけは避けなければならず、やはり注意は怠れない。

どれだけ未来の俺がこの手紙を読むか今は知る由もないが、おまえ、近々肺炎でくたばっちまったりしてないよな?

naany(43歳)

お久しぶりです。

未来の俺へ。

久しぶりに未来の自分へ手紙を書く。

そちらはどうだろうか。

「どうだろうか」

と問われても困ってしまうかもしれないな。

これも一種のナルシシズムなのか、俺は自分で書く文章が好きであるから、割りと自分のブログを自分で読み返す機会も少なくないと思う。

従って、この手紙にしろ、読み返す機会は一度や二度では済まぬだろう。

早くも来週の俺が読んでいるもかもしれないし、来年の俺が読んでいるかもしれないし、10年後の俺が読んでいるかもしれない。

要は、一通の手紙が複数の自分へと届くのだ。

その中には快調な自分もいれば、不調な自分もいるに違いない。

どちらかといえば今は不調だ。

この令和2年の2月は、この夏に開催される東京オリンピックに向けてのお祭りムードもどこへやら、中国が発祥とされる新型のコロナウイルスによる肺炎が世界的な問題となり、世間を騒がせている。

そう書けば、

『あぁ、あの時代か』

ピンとくるかもしれない。

件のウイルスに対し、少なくとも今の自分はそれほどの強い危機感や脅威を抱いてはいないが、この先どうなるか、現時点で知る由もないことも事実。

この手紙の届く先の俺が

『あったあった』

と今の時代を懐かしんでくれることを期待している。

『忘れもしない。それが全ての災厄のきっかけだったのだ』

そう戦慄とともに振り返らなければならぬ未来が訪れませんように。

naany(43歳)

一方通行。

未来の俺へ。

たまにこうして未来の自分へ手紙を書いている。

この手紙を読むのはいつの俺だろう。

そちらは令和何年ですか。それとも令和も過去になりましたか。

こちらは令和元年です。

自分としては面白がって未来の自分へ宛てた手紙を書いているつもりだけれど、唯一おもしろくないのは

返事が来ないこと。

アタリマエか(笑)

こうして返事が届くハズもない手紙を書いていると、何だか自分が収容所みたいなひどく閉鎖的な施設に入れられているような気分になる。

どうにか監視の目をごまかして手紙を出すことはできても一方的で、返事を受け取ることはできない。

そんな少し寂しい気持ちだ。

この手紙を読んでいる俺も俺で今の俺に何か伝えたいことがあるのではないだろうか。

あるに違いない。

例えば、

その年の○月×日はクルマの運転をするな(事故るぞ)!

とかね。

そちらはどうですか。まだ苦しいですか。それは今と同じ理由からですか。また別の苦しさですか。

今の俺は余り面白くありません。色々なことが上手くいかなくて。

思い出してみてどうでしょう。

「あの頃の方がまだマシだった」

と感じますか。それとも少しは余裕もできて

「あの頃は散々だったなぁ」

と笑えるでしょうか。

後者であることを祈っております。

naany(43歳)

夢の水。

未来の俺へ。

このブログは

公開日記

であるが、「未来の自分への手紙」というスタイルをとれば、かなり乱暴な書き方をしても許されることに気づいた。

何せ自分に宛てているのだ。何の遠慮をする必要があろうか。

とはいえ、この習慣が悪い習慣とならぬよう、気をつけたいとは思う。

ところで、だいたい年に一回あるシャントのエコー検査を血液透析でお世話になっている施設でして頂いた。

特に問題のないシャントだそうだ。

このシャントの造設手術を受けたのは2011年4月1日のこと。今の時点でこのシャントを8年以上使っている勘定になる。

「いずれシャントが何らかの理由で駄目になり、再び別のシャントを造設する手術を受けてもらうようになるかもしれません」

このシャントを作る手術の際、そのように説明を受け、誰かに聞いたのか何かで読んだのか

『まぁ10年使えたら御の字だろう』

そんなふうに思っていたものが8年ももった。

そちらでも、まだ同じシャントは使えているだろうか。さすがに8年も一緒にいると妙な愛着もあって、

可能なら一生……血液透析生活を終えるまで……このシャントを使い続けたい

と思っているから、まだ同じシャントが頑張ってくれているなら嬉しい。

一方で、この手紙を読んでいる俺が何年先の俺だか、例えば再生医療技術等の発展も著しく、自分の細胞を使うか何かしてこしらえた別の新しい腎臓を使って生きていたりして、このシャント自体が必要でなくなっていたとしたら、それはそれで嬉しい。

そうでなくても、今の人工透析法とは違う医療技術で、やはりシャントは不要となっているかもしれないな。簡単には、薬を飲みさえすれば済むようになる、とかね。

もちろん酒も好物ではあるが、やはり今は良く冷えた水が飲みたい。

東久留米は水が旨いから、何でもない水道水を冷蔵庫で冷やして、それを嫌になるぐらい、そうだな、2リットルぐらいいっぺんに飲みたいな。

「たくさんの水が飲みたい」

というのも夢としてはささやかに過ぎるか。

それでも今の俺にとっては夢であることに違いはない。

この手紙を読んでいる俺が、その夢を何のためらいもなく実行できるような健康状態になっているとすれば、それこそ夢のようなハナシだ。

そんな2リットルのお水をいっぺんに飲みながら、この手紙が届く先の俺は何を思うのだろう。

その返事は決して今に届かないことを考えると、少し虚しくなる。

それともやっぱり水は我慢か?

だとすれば、この手紙は更に未来の俺へ託す。

naany(43歳)
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プロフィール

nanny

恥ずかしがりで寂しがり。

Iga腎症、アトピー性皮膚炎等、様々な病気と付き合っており、現在は血液透析(週に3回 1回4時間)を受けている元腹膜透析(CAPD)患者です。

糖尿病がありましたが、40kg以上の減量に成功し、現在は寛解しています。

2009年7月3日に原因不明の卒倒をして以来、離人感を抱くようになりました。

ブログでは日々思った色々なことに就いて書いています。

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